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2008年5月

明来9

 明来はこの民宿がとても気に入った。海が近いのは最高であるし、宿の人はとても親切である。加えて、明来の通された一人部屋は、下宿のままという感じがとても落ち着けた。明来は、あの車中の男性に感謝しなければならないと思った。

 翌朝、明来は8時過ぎにチェクアウトすると、親切な宿主さんの車で「朝市」まで送ってもらった。朝市通りはすでに観光客であふれていた。明来にとっては初めて見る光景であるが、道端に店を開いて一心に通行客に声を掛けている老婆たちの姿は、輪島の朝市を身近なものにさせた。
「お嬢さん、これ買うてってや。」
という老婆の声に足を止められ、その姿にはついつい財布の紐を解かされてしまう。渡す当てのないお土産なのに。

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明来8

 昨晩の夜汽車はたいへんな混雑であった。東京から金沢まで9時間かかるというのに、座席のない乗客が通路いっぱいにあふれていた。明来は運良く席を確保することができたが、立ったままで9時間の旅をせざるを得ない乗客は苦労であったろう。自分の鞄の上に腰掛けてしまったり、新聞紙を敷いたりして足を休めていたが、皆、眠ることなど不可能であった。
 明来も何となく眠れずにいると、やはり腰掛けられずに明来のすぐ脇に立っていたひとりの中年男性が話しかけてきた。
「どちらまで行かれるんですか?」
「金沢です」と、明来は応えた。
「そうですか。やはり皆さん終点近くまで行かれるから、空かないでしょうね。」
「大変ですね」
と、自分が席を譲ってあげることのできない代わりに同情の言葉を述べた。
「学生さんですか?」
と、そんな会話から、一晩を同じ車中で過ごす者同士のとりとめのない雑談が始まった。 

 その男性は東京へ出張した帰りであるという金沢のサラリーマンであった。明来にしても一人旅の車中での時間は退屈なものだし、持参した本に目を通しても夢中になって読むことができず、持て余していたところであった。
 思わず弾んだ話の中で、金沢の地理や兼六園の雪つりのことを聞くことができた。さらには子供の家庭教育にまでも話は発展していた。初対面の人と真剣に言葉を交わせるということは、やはり旅の持つ魔力であろう。
「輪島での宿は決まっているの?」
「いいえ。着いてから考えようと思っていたので。」
「僕の友人が民宿をやっているんだけど、よかったら紹介しましょうか。」
「本当ですか。助かります。」
見知らぬ人の言葉に甘え、安易ではあったが、明来は海辺の民宿に宿を取った。

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